辻阪京子の色は匂えど

「色は匂へど・・・」担当:辻阪 京子 メルマガ「まわし文」の中で、「色は匂へど・・・」を担当させていただきます。 コラムや書評など、楽しんでいただけて尚且つ、皆様にとって有用な内容をお伝えすることが出来ればと思っております。

第20号(2006年01月06日)


皆さんは「京都検定」をご存知だろうか。私の知人が還暦を目前に生まれて初めて試験に不合格となったのがそれだ。

3級と2級を同時に受験して3級だけ合格したらしく、合格カードを嬉しそうに見せて、今年は是が非でも1級でリベンジを果たすらしい。日本人の検定試験好きと、自分の住む街のことを少しでも知りたいと言う思いがあいまって盛り上がったような感じがしている。元々京都商工会議所が、観光客増員を目的にタクシーの運転手など、観光案内をすることを生業としている人たちを対象に始めたものだが、一般の受験者の方が多かったようだ。一時期、試験用の参考書がベストセラーになるほどの人気を博していたようだが、私も中身を覗いてはみたが、その内容の難しさは尋常ではなかった。しかしその時にふと思ったことがある。大阪で生まれ育った私は、一体どれほど大阪のことを知っているのだろうと。それと同時に、まずはその街を知ること、そこに街の再生や活性化のヒントがあるのではないだろうかと。
空き店舗をはじめ治安の悪さなど今目の前にある現象は、そこに至る過程の中に原因が隠れているのではないだろうか。イベントなどを企画して、目の前の問題だけを解決したとしても、結果的には一時凌ぎでしかないような気がする。ビジネスの世界では、誰もが解っている「原因があって結果がある」と言うのが、こと街の活性化においては、その原因をもっと遡って考えるべきであるような気がした。今年は生まれ育った大阪をもっと知るために学ぼうという気になっている。


辻阪 京子

第19号(2005年10月11日)

8月初旬に仕事半分で、北海道の道東と呼ばれる地域に行くこととなった。メンバーは81歳、69歳、65歳の男性陣と、私と同年代の女性の、総勢5名の珍道中である。


札幌に到着してから、旭川、北見、サロマ湖、知床、根室、釧路、函館を、3泊4日の旅程でまわる強行軍である。北見では、自転車で道東を縦断していた知人と合流。この夏は知床半島が世界遺産となって初めての夏休み、そのお陰で道内での空路の予約が全く取れなかった。
旭川からの移動に使用したレンタカーの走行距離が約600Km、根室から函館まで特急を乗り継いで陸路9時間、列車での移動では修学旅行以来の乗車距離である。頑強を自負している私ですら、かなりの時間を眠り込み、函館到着後もかなり疲れていた。ところが車内で偶に目を開けると、なんとオジさん達はズーッと喋りっぱなし。それも食材を如何に活かすかの研究に余念が無いのだが、我々女性陣も料理の内容やビジネスの話まではついていけるが、専門用語の上に化学式が出てくると、私の知識範囲では「降参」白旗を上げるしかない。その上どんな事にも興味を持ち、びっくりするような発想をし、新しいことにチャレンジをすることもいとわない。おまけになんでもよく知っている。もちろん年齢や経験によるものが大きいのだろうが、このお三方にはそれ以上のものがある。そして何よりも驚きだったのが、毎日3食プラス間食までを何でも美味しそうによく食べること、これにはかなりの大食感の私も完敗という感じだった。
私は北海道行きの前に、このお三方とは徳島にご一緒している。その際にもかなり驚かされることばかりでだったが、北海道行きで揺ぎ無いものとなった。元気で長生きする秘訣とは、よく動き、よく食べ、よく喋る。そして何に対しても子供のような好奇心を持ち続けることではないだろうか。なんとなく自分の目指す 80歳が見えたような気がした。


辻阪 京子

第18号(2005年07月01日)

5月28日(土)10:00、大阪美化プロジェクト(別名:VCお掃除隊)が始まった。

VCの関係者を中心に総勢40名ほどが、大阪市役所をスタートして土佐堀通から中央大通(東西は、堺筋から四ツ橋筋)までをジグザグに、約2時間ゴミ集めを行った。プロジェクトの担当としては、時間配分等を決めなければならないので、事前に下見をしながら歩いてみた。普段何気なく歩いている時には気付かなかったけれど、煙草の吸殻がやけに目立ったが、実際にゴミ集めをしてみて、圧倒的に多いのが煙草の吸殻なのに驚いた。それがまた固まって捨ててあるし、溝には必ず吸殻が捨てられている。また酷いのは自販機のそばや、駐車場の角に吹き溜まりのようになっているすらある。私も喫煙者の一人ではあるが、喫煙者のマナーの悪さに穴があったら入りたいほどの気分にさせられ、この時ばかりは、東京都の真似でも良いから、大阪市内の歩きながらの煙草を禁止して欲しいと思ったほどである。
煙草の吸殻もそれ以外のゴミも、満遍なく落ちているのではなく必ず固まっている。全くゴミの落ちていない場所があるかと思えば、「ここはゴミ捨て場?」と見紛うような場所すらある。これが「割れ窓理論」と言われる現象なのだと実感した。治安の悪さでは有名なニューヨークを、地下鉄を綺麗にするところから始めて治安を良くして行った、正にあれである。人間の心理なのだろう。汚い場所ならゴミを捨てることに躊躇はしないし罪悪感も薄れるが、綺麗な場所にはこんなところにゴミを捨ててはいけないと自分を律するのだろう。
終わった後で、参加した方々から感想をお聞きした。皆さん概ね満足をされていた。もちろん自己満足の域を出ないし、端から誰かに認めて貰おうというのでも無いが、ちょっとした達成感があったの確かのようだ。私も途中で数人の方に「ご苦労様」と声も掛けていただいた。それはそれで照れくさいのだけれど嬉しい。普段歩かない場所を歩くことによって、素敵なお店を幾つか発見したのも楽しかった。
次回は、7月23日(雨天の場合は、翌週30日)、皆さんのご参加を是非お待ちしています。


辻阪 京子

第17号(2005年05月09日)

「ホリエモン VS フジTV」も、騒ぎが大きかった割にはあっけない幕引きとなった。

その間に様々な有識者のコメントや意見が飛び交い、ホワイトナイトなど今まで知らなかった言葉を数々覚える事となり、今まで縁もゆかりもなかった人たちにまで、M&Aや株式に興味を持たせる事にもなったと思う。
今回のことでは、それこそ皆さんも様々な意見をお持ちだろうが、私の脳裏をよぎったのは「エンデの遺言」である。ミヒャエル・エンデは「モモ」を代表作とする童話作家として有名であるが、現在の貨幣システムのありかたに警鐘をならした人でもある。このことは寓話である「モモ」の中にも盛り込まれている。彼のメッセージとして「人間が生きていくことのすべて、個人の価値観から世界観まで、経済活動と結びつかないものはありません。問題の根源はお金にあるのです。私が考えるのは、もう一度、貨幣を実際になされた仕事や物と対応する価値として位置づけるべきだということです。――中略―― 非良心的な行動が褒美を受け、良心的に仕事をすると経済的に破滅するのが今の経済システムです。」とある。そして「…たとえばパン屋でパンを買う購入代金としてのお金と、株式取引所で扱われる資本としてのお金は、二つのまったく異なった種類のお金であると言う認識です。」とも書かれている。
何もすべての貨幣システムに異議を唱えているわけではない。時には投資も必要不可欠である。目的のためにIPOで資金を集めをするのは大いに結構である。しかしながら、昨今のベンチャー志望の若者の中には「IPOが目的」と言い切る人もいる。彼らには、IPOが目的ではなく手段であり、またそこには社会的な責任がついて回ること、そして企業も人と同じで育てるものであるなどとは理解できていないだろう。恐らく、その手の若者にとっては、資本力にものを言わせて、M&Aで企業を巨大化させていく事こそ賞賛に値すると映っているだろう。今回の一件がもたらせた悪影響があるとすれば、実現性の無い「夢見る夢夫君」の増殖かもしれない。

以上

辻阪 京子

第16号(2005年03月03日)

先日、西宮で開催された「阪神SOHO交流会」で、パネルディスカッションのコーディネータを頼まれた。私自身としては「頼まれた仕事をこなす」くらいのつもりで参加したが、久々に素晴らしい催しだった。

お陰で懇親会の最後まで付き合ってしまう羽目になってしまった。内容的に目新しいものがあったわけでも、著名な講師だったのでもない。メインスピーカーの講演の後、2部に分けられたディスカッションと言う組み立てである。その上、それぞれのディスカッションに6名ずつのパネリストで、持ち時間が1時間、依頼を受けた当初、しっちゃかめっちゃかになるのではないかと危惧さえしていた。ところが蓋を開けてみると、参加者こそ予定通りの150名強の人数であったが、その殆どが最後まで席を立たず、おまけに懇親会への飛び入り参加が増えていたようで、用意された会場内での身動が困難になると言う一幕もあった。
一体、何が良かったのだろう。事前打合せも無ければ、直前の打合せも適当。おまけにパネリストのうち何名かが打合せにいないという状況下で、「いざとなれば何とかなる」といつもは大雑把な私でさえ不安になる始末。そんな状態だったので、余計に不思議だった。企画した人たちの努力も認めるが、それだけではただ単にスムーズに流れはしても、それだけで終わってしまう。私も今までに何十回となく会を催してきているので解るが、心地良い盛り上がりをもたらすのは、決して綿密な計画で作り上げられるものではなく、何か別の力によるもの、という気がしている。初対面の人との息がぴったり合うような、そんな感じである。今回の場合は、全てが良い流れに流れ、主催者、講師、参加者の息が合ったのかもしれないが、近頃では珍しく「大人の集まり」だったというのも見逃せない。 VCの例会、周年記念などの参考になったのは言うまでもない。

以上

辻阪 京子

第15号(2005年01月05日)

新年明けましておめでとうございます。

本年も宜しくお願い致します。
数々の災害や、気の滅入るような事件が多かった2004年が終わりを告げ、2005年は素晴らしい年であるようにと願わずにはいられないが、それにしても年を追う毎に、新年を迎えると言う厳粛な気分が薄れてしまっているように感じる。商売ベースでクリスマス、年末年始と否が応でも感じずにはいられないが、年末年始の雰囲気はトンと変わってしまったような気がする。特にここ2、3年で大きく変わったのが年賀状ではなかろうか? 年賀状の枚数が年々減り、プライベートの場合などはメールが圧倒的に多くなったように感じる。
年賀状のあり方自体を考える時期かもしれない。たとえオフィシャルであっても全面印刷で送られてくるのであれば、メールで一言でも書いて下さる方が好ましく感じるし、ましてやプライベートであれば尚の事である。また子供の顔など一度も見たことが無いのに、子供だけの写真年賀状が送られてくるのには辟易する。家族全員の写真か、家族の近況を知らせるメールの方が幾分か楽しい。何もメールの方が良いですよ、と言っているわけではない。一枚、一枚、ご自身で水彩画を描いて俳句や一言を添えて送って下さる方や、毎年達筆な筆さばきで年賀状を送って下さる方には、嬉しい思いと共に気の引き締まる思いすらする。一枚一枚の絵や、一文字一文字宛名を書いて下さっている時に、私のことを思い、書いて下さっていると感じられることが素晴らしいし意味がある。そう言う意味で、たとえメールであってもそれぞれに文章を書く際に、相手のことを思い書くのであれば、送られた方にもそれは伝わるのではないだろうか。
手紙、葉書、電報、電話、携帯電話、FAX、メール、携帯メールと通信手段は増える一方だが、各々に特徴があると感じる。メールが飛び交う時代にあって、偶に手紙が届くとワクワクする。それぞれの使い方を考えて効果的に使いたいものである。


以上

辻阪 京子

第14号(2004年11月04日)

今年の日本列島は一体どうなっているのか、まるで小松左京著の「日本沈没」に向かっているような、そんな錯覚さえも覚えてしまう。日本に上陸した台風の数も数なら、その威力も近年に類を見ない凄まじいものである。

また阪神淡路大震災からちょうど10年目を翌年早々に迎えようとしている今年、新潟県中越地震が起きた。災害の映像には体験・非体験により温度差があると言われているが、関西に住み10年前の震災を経験した我々にとっては、とても他人事とは思えない。10年前の出来事が、否が応でも蘇って来る。
6月に神戸で開催した日本透析医学会では、まさに10年前の教訓が生かされているか否かの検証のような特別企画「医療の危機管理」を同時開催した。災害時のライフラインを始め、救助・救護、そして医療のネットワークのあり方などを問う催しとなった。その特別企画に参画して下さった企業や団体の方々と、学会後も連携を取ろうと「災害時医療連絡協議会」なるものを発足させ、初めての集まりを先日行った。そんな折に奇しくも起きたのが新潟県中越地震である。10 年前の教訓が生かされているのか、また医療のネットワークは機能するのかと、やきもきしながら確実な情報を得ようと各局のニュースに見入っていた。そんな中、災害発生の翌日である昨日、各医療機関と製薬メーカー、そして行政の連携が取れている旨のメールが転送されてきた。逸早く出された行政の情報(どこの医療施設で何が足りない、などの情報)に、製薬メーカーが即座に対応したと言う内容のもので、表立ってTVのニュースにはならないけれど、水面下では様々なものが機能しているようだ。私としても、手伝ってきたことが少しは役立っているようで、安堵したのが正直な気持ちだ。
企業の社会貢献には様々な形態がある。儲けたお金で次代を担う人達の支援をする、また公共財として寄付をする、そして仕事自体が社会貢献となっている場合もある。ニュースネタにはならないまでも、また大々的に取り上げられなくとも、たとえ僅かであっても「世のため人のため」になっていると自負しながら仕事をしたいものである。


以上

辻阪 京子

第13号(2004年09月06日)

9月1日付で事務所を移転した。

今年の11月で起業して丸20年、4回目の引っ越しである。最初の2回はスペースを広げるためであり、捨てるものは皆無で、逆に新しい物を買い足すことばかりだったが、後の2回は集約するための引っ越しで、こちらは何やかや不要なものを捨てることが中心となった。それにしても整理をせずに放って置いた物や、不要品をこれほど溜め込んでいたかと半ば呆れながら、引っ越しの準備をした。「勿体無い」、「いつか必要になるかもしれない」と思って、置いていた物の殆どが、一度も出番無く捨てられる運命を辿った。

一時「捨てる技術」なる新書がベストセラーになったが、書店で立ち読みをして「私には無理」と思い購入しなかった。個人的には、できるだけ物を増やさないように生活をしようと決めているが、なかなか思い通りにはいかないものである。「こう言う時の為に・・・」とか、「いざと言う時の為に・・・」と、安いからと買い込んだ物が増えて行く。その上に「一点もの、これしかない」の言葉に弱く、その面からも物が増える。片や事務所の方はと言うと、これまた資料がドンドン増える。情報は寿司屋のネタと同じで、新鮮さが無くなれば価値は無いが、実績として置かざるを得ない資料と、次の仕事に生かせるであろう資料との見極めが結構出てくる。おまけにペーパーレスと言いながらも、マシンの買い替えやソフトの入れ替えなどで、メディアで置いておく不安により、主だったものは紙ベースで持ってしまう矛盾。仕事柄マシンの中身に関しては、プロジェクト単位で定期的に整理をしているが、大容量のHDが搭載されるに従って、全く意に介さない人も多いだろう。

私が尊敬する諸先輩方は、揃いも揃って身の回りに物が少ない。手帳一冊で事足りているようにさえ見える人もいる。にも関わらず、どんなことを尋ねてもすぐさま回答が出てくる。私もこれを機に、せめて仕事の面だけでも、自分なりの整理術を見つけてみようと思っている。

以上

辻阪 京子

第12号(2004年07月02日)

6月18日~20日まで神戸のポートピアホテル、国際会議場、国際展示場を借り切って開催していた、第49回(社)日本透析医学会学術集会・総会を滞りなく無事に閉会した。

準備から1年数ヶ月、今まで経験してきた小さな学会とは異なり、2万人規模といわれる一大イベントの主催者事務局を体験した。特に今回は、阪神淡路大震災から10年目を向かえることで、普段の学会に加え、「特別企画『医療の危機管理』」と称して、一般企業や各種団体にまで出展や講演をお願いすることとなった。これに関しては、一柳代表を始め、ベンチャーコミュニティーの関係者にも多大なご支援とご協力を賜った。

原作が書かれて数十年経過した「白い巨搭」がTV放映され、高視聴率をあげていた事でも解るように、医療の世界は、医療技術の発達とは裏腹に何も変わっていない。その状況に風穴を開けたいという、学会の理事長でもある大会長の思いに賛同したスタッフが集められての開催となった。今回は大規模災害発生時に「命を救うには・・・」ということが中心に取り上げられたが、医療を取り巻く環境の中での「危機管理」とは「災害時の危機管理」に加え、「医療過誤」、「医療経営」があげられる。これらに対処していくには、医療関係者や関係企業のみならず、広く多方面の企業や団体と連携を取る必要性を強く感じ、望んでいる大会長のもと、働かせて頂くことになったが、私が知る限りにおいてこれほど広い視野を持ち、またマネージメント能力に長けた外科医を知らない。集まったスタッフのみならず、出展いただいた一般の企業各社も口を揃えて「とても医者とは思えない」というほどの人物である。

エピソードは数多くあるが、千床足らずの総合病院の院長だった時に、夜中にトイレが詰まったと自らがトイレ掃除に走ったと聞く。「なぜ院長が?」と問うと、「医療スタッフは皆忙しいから手を汚せない」と言う回答が返ってきた。大きく全体を把握しながらも、細かいことも見えている。そして事が起こり、必要とあらば自ら率先して動く、このようなリーダーの下では、スタッフ同士や他の関係者との人間関係で、たとえ一触即発の状況になっても、皆が「良い物にしたい」「成功させたい」思いで、忍の一字で自分を押さえようとすることが解った。別にその人が何かを言ったわけでもなく、そのように仕向けたのでもなく、自然と出来上がるものだと言う事を・・・

本当に大変な仕事ではあったが、実に得るものも大きかった。仕事のあり方と共に、トップとして、そして人としてのありかたにおいても・・・

以上

辻阪 京子

第11号(2004年04月30日)

先日、親しくしていた女性が亡くなった。

44歳の誕生日の翌日に眠るようにこの世を去った。家族以外の人には寝耳に水のような知らせであったが、聞けば壮絶な癌との戦いは4年近くも続いていたらしい。お父上が最後のご挨拶で「親より先に逝くとんでもない親不孝な娘ではあるが、頑張って、頑張って、頑張り抜いた娘を誇りに思う。最後は拍手で送ってやって欲しい。」と言われたほどである。その間、本人が自ら家族に緘口令を引き、周りにいた仕事仲間ですら気付くことない振舞いで、直前まで仕事も続けていたようだ。遅咲きではあるが、アーチストとしての才能も豊かで、まだまだ未完の部分がいっぱいあっただけに、悔しさは計り知れない。

訃報を耳にして状況を知ったとき、きっと元気な時の姿だけをみんなに覚えていて欲しかったのだろうと思うと同時に、これほどまでに強い人だったのかと驚くしかなかった。手術で患部が切除しきれず、抗がん剤も合わない、自分で調べ上げた癌の治療法や民間療法を片っ端から試し、その資料は莫大な量になったと聞く。最後の最後まで生きる事をあきらめてはいなかったのである。

ふと思う。私が彼女の立場ならどうしただろう。そこまで強い精神力を保っていられるだろうか。確かに「元気なときの姿を覚えていて欲しい」とは思うだろうが、それ以前に腹立たしさと絶望感にさいなまれるような気がする。そんな思いが頭を一杯にし落ち込む反面、志半ばで逝った彼女の分まで頑張らねばと、言う思いが交差する。思い返せば6年前、私は大切な人を癌で失った。彼もとても強い人だった。親しかった人たちに、半年ほどの闘病を取り繕うのに苦労したことが今でもよみがえる。彼の最後の言葉「未練はあるけど悔いはない」、仕事も含めての自分の人生、最後にそう言えるような日々を過ごしたいものである。

以上

辻阪 京子

第10号(2004年03月03日)

現在のマイブームは食材、それも野菜である。

以前からも食材にこだわってはいたものの、昨年秋にある人の野菜と出会ってからと言うもの、必要最小限の外食しかしなくなった。彼の作る野菜は、野菜自身が味を持っていて、下手な料理に使うと他の素材が負けてしまうのである。その上、「美味しい物は高い」という認識も崩れ去った。とても近くのスーパーや他のお店では野菜が買えないという困った状況に陥っているが、今や長靴を履いてカマを持って、畑で収穫をさせてもらうのが実益の伴ったストレス解消法になっている。おまけに車のトランクを満杯にしている野菜を両親にお裾分けするという親孝行まで付いてくる。

野菜とベンチャーがどういう関係が有るかと尋ねられれば、これが大有りなのだ。畑に出入りさせて貰っている農家を背負っているのが、4年前まで学校の先生をしていて、その後家業を継いだ30歳代の若者で、彼の作る作物の何点かは農林大臣賞を貰っており、日本国中からの見学者が後をたたない。農協とは全く関わりを持たず「高級食材」のみを扱うお店にだけ出荷し、それ以外はご近所向けに家で販売をしているが、客は引きも切らずにやってくる。噂を聞いた人達が遠くから車でやってくることも珍しくない。おまけに彼が中心になって若手農業従事者間をネットワークで結び、お互いに刺激しあって美味しい物を作りたい、美味しい物を食べて欲しいの一心で研究と実作業を繰り返している。近郊の休耕畑を安価で借り受けることにより経費を抑える努力もしながら、ドンドン畑を増やして行っている。彼らが目を輝かせながら野菜を扱ったり、野菜のことを話したりするのを眺めていて、そこにベンチャーの真髄を見たような気がした。

経産省はしきりに「物造り国家」を提唱しているが、日本の物造りの原点に農作物があったのではなかったか。担当省庁が違うと言われてしまえばそれまでだが、貿易収支を黒字にすることも大事だろう、ベンチャーが株式公開するのを支援するのも必要だろうが、何か事が起きた時に自給自足できる国家の強み、そんなことを考えながら今夜も美味しい食材に囲まれて食事の用意をしている。

以上

辻阪 京子

第9号(2004年01月05日)

新年明けましておめでとうございます。

旧年中は何かとご厚情賜りありがとうございました。本年も相変わりませずよろしくお願い申し上げます。
今年もベンチャーコミュニティの皆さんにとって、素晴らしい年でありますように…!
このところ年末年始が妙に早く過ぎて行くような気がして仕方が無い。年末の慌ただしさは早い内から慌ただしくなった気がするし、お正月にいたっては「仕事始め」と共に終わってしまう感がある。特に都会では年末の風物詩であった筈の餅つきも見ることも無くなったし、初詣や街行く人達の着物姿もめっきり少なくなった。凧上げや独楽回し、羽子板で遊んでいる子供などには全くお目に掛からない。それでもまだ成人式が1月15日だった頃までは、小正月に鏡開きなどと、お正月の最期としての区切りがあったような気がしていたのだが、それすらも日にちが流動的になったために薄れてきている。
別の要因としては、「歳末大売り出し」と31日までうたっていた量販店やデパートが、早いところでは翌日の元旦に通常通りの営業をしているし、コンビニも 24時間の平常営業だし、年末に食料などを買い込む必要が無くなったからではないだろうか。我々が子供の頃は1週間程度なら篭城できるほどの食料が家にあったように思う。食べ物を日持ちさせるために煮しめたり、酢漬けにしたりと言う工夫がなされた「おせち料理」も、今では「縁起物」として、有名料亭やレストランの「おせち」が飛ぶように売れているとも聞く。
別に昔を懐かしんでいるわけではない。個々の生活スタイルの多様化に伴って、そこに新たなマーケットができることも悪いことではない。しかしながら、日本文化を一番身近に感じられる機会であった筈の年末年始が、年を追う毎にただの年の変わり目としての意味合いしか持たなくなっているのに少し寂しい思いをしているだけである。希望を持てるとするなら、世の中の流れが「ファーストフード」から「スローフード」へと変わって行く中で、「スローライフ」が見直され始めたことである。年末に無理が祟って珍しくダウンした私も、普段の生活も少しゆっくり目にする時期に来ているのかなぁ~ と考え始めている。


以上

辻阪 京子

第8号(2003年12月01日)

人事のマネージャーである友人が「精神内科か精神科医を紹介してくれない?」とメールを入れてきた。

話しを聴くと大阪支店で3人目らしいが「鬱」状態で休職中の社員が医師を替えたがっているらしいと言うのである。それにしても聞けば聞くほどに、近頃の人事担当は大変そうだ。「鬱」状態で休職している社員のために日本国中駆けずり回って、その都度担当医師と会って状況を把握するだけではなく、医師が気に入らないと言われれば医師探しまでやっている。このことを切っ掛けにしたように、何故かその手の話しをよく耳にするようになってきた。先日もある会合で、同じ症状の部下を持っている人の話しを聞いたところである。「仕事を与えないと症状がひどくなる。でもプレッシャーを感じさせるような仕事は与えられない。絶えず気を使いながら仕事を探している状態で、全く仕事になりませんよ」とぼやいておられた。
何人かの人達から幾つかの事例を聞くにつけ、徐々に性格的な共通点があるように思えてきた。これは先の友人からのメールにあったものも含まれるが、「生真面目で、自信がなくて、でもプライドは高くて、他人の評価が気になって、負けず嫌いで、余裕がない。べき論で自分を追い込んでしまう。世代交代の波に飲まれて自分を見失っている。」と言うのが、この病気に掛かるべくしてなっている、典型的な「タイプ」らしい。年齢的には30~40歳代の、どちらかと言えば女性よりも男性の方に多いようである。少なくとも「いい加減で、変なプライドなど持ち合わせてなくて、他人の評価など全く気にしない」私には縁が無い病気(「そんなことはありませんよ」と、ここで誰か、突っ込んでくれ!)と解ったが、一体何が原因なのかが気になり始めた。
現在、自分の会社のスタッフを見渡しても、それらしい人物は見当たらないし、以前OLをしていた時にも、私が知る限りにおいてそれらしい社員などいなかった。どこに違いがあるのか考えてみると、同じ職場で仕事をするもの同士の関係が希薄になっているように感じられる。社内の行事や、上司とのちょっとした付き合い、それに外部の会合などに積極的に参加している人達からは、「鬱病です」なんて聞いたことが無い。どうもそのあたりに答があるように思える。

以上

辻阪 京子

第7号(2003年11月04日)

このところやけに女子大生によくモテる。

。ベンチャーコミュニティの4周年の懇親会で名刺交換をした女子学生からも早くもラブレター(?)が届いた。男性諸氏にとっては「羨ましい」限りの話しであろうが、女子学生にモテるのも善し悪しである。
例年「卒論の情報集め」と称してインタビューをさせて欲しい、また他の女性起業家の方を紹介して欲しいなどと言うお願い事が殆どだが、今年は3名もの女子学生の卒論に関わっている。もちろん調査の骨子と内容がしっかりしているものもあるのだが、言葉で飾り立ててはいても内容がはっきりしない場合もある。私も立場上、忙しい方々にインタビューのお願いをするからにはと、内容のチェックをし、しっかりした内容になるまで何度となくやり取りを繰り返すのだが、ともすれば卒論の指導をしてしまっている場合も多々ある。なにもそこまでしなくてもと言う気持ちもないではないが、彼女達の世代から少しでも私達の活動を引き継げる人達が出てきてくれることを期待してお手伝いをしている。
卒論と似たような印象を持つのが、昨今の学生ベンチャーについてである。若い学生の発想や奇抜なアイデアには偶に驚かされることもあるが、実際にそれを商品化したり、市場開拓をしたり、果ては会社経営までをしなければならない、と言うことが解っているのかと感じることがある。ベンチャーコミュニティのアドバイザーであり、先日の4周年の総会で基調講演をして下さった木村政雄氏が、自身の著書「こうすれば伸ばせる 人間の賞味期限」の中で「守破離」と題して書いておられる「基本を学び、そして我慢する『守』の部分が欠けている」と言う言葉に大きく頷いてしまう。学生ベンチャーからでも、しっかり企業経営者として認められている方もいるが、私も含めて先ずは企業に就職して「守」の部分を経験し、様々なものを培ってきた上で起業しているケースの方が圧倒的に多い。本人は意外と気付いていないことも多いのだが、私の場合は組織の中で知らず知らずの間に身に付いたものが大きな財産となっている。
若い自由な発想を重視するのか、商習慣を身に付けるのが先か、決してどちらが正しいと言うのではない。学生ベンチャーでも立派に商習慣を身に付けている人いるし、組織に属した経験を持っていてもビジネスマナーが全くなっていない人もいる。重要なのは組織に属さなくとも最小限のビジネスマナーを身に付けるためにはどうすれば良いか、その方法を考えるべきではないだろうか。

以上

辻阪 京子

第6号(2003年10月01日)

19年前に起業する際に父から「投機はするな、手形を切るな、在庫を持つな」と3つのことを約束させられた。

古くから船場島の内で商売を営んできた商家である我が家にとっての家訓なのか、ご先祖が身にしみて感じたことなのかは解らないが、私にも言い伝えられた商売の基本である。
自分の住む家を建てるために土地を購入する、ゴルフが好きだから会員権を買う、これならば必要に応じて、また趣味なのだから良いが、値上がりを考えて土地などを購入する投機はするな、と言うこと。手形はお金があるが如くの感覚的な錯角を生むから駄目だと。そして在庫を持つな、とはもちろん不良在庫の事である。「『ヤマイダレに品が山となっている』の文字なんと読む」と問われると、まさしく「癌(ガン)」である。品が山のようにあると言うのは不良在庫のことである。商売の「癌(ガン)」は不良在庫なのだと。漢字を紐解いていくと、他にもこじ付けではあるが面白いものがあることを知った。「企業とは人(有能な)を止め置く業なり」と…。古の人々はなかなか粋なことを言ってくれるじゃないの、と思うと同時に学生の頃に読んだ「西鶴」も風刺的に商売のあれこれや、お金に関する話しを多く書いている。今読んでも「ふんふん、なるほどねぇ~」と思える事柄もある。
様々な有識者と言われる方がマーケティング手法であったり経営に関して説いておられるが、それに振り回されるだけで良いのかと感じることが多々ある。大阪には一世を風靡した「浪花の商人」としての商売の原点があった筈である。それを今一度見直してみても良いのではないかと感じる今日この頃である。

以上

辻阪 京子

第5号(2003年09月04日)

このところビジネスマンのいでたちも、少しずつではあるけれど個性が表現され始めてきた、と感じるのは私だけではないだろう。

私自身、二十年ほど前に起業したての頃と言えば、かなり気合いを入れて気負い込んでスーツを着込んでいた。今から思えば、まだまだ「出来るように見られなければ」「馬鹿にされてなるものか」などと気負い込むほどに、逆に言えば自信が無かったのだと思う。年数が経ち少しずつではあるが地盤が固まってきて、鎧兜の堅さが取れてきた。要は素手でも勝負ができる自信がついた頃から、ある種の精神的なゆとりが持てるようになったからであろう、比例するようにいでたちも柔らかくなっていった。今では仕事をしながらでも、その中でのファッションを楽しめるようになってきている。
起業相談でも「こう言う時にはどんな恰好をすれば良いですか?」などと言う質問もよくある。先ずは自分らしさを表現することが大切だと思う。リクルートスーツでさえ、私に言わせていただければ誰しもが似合うわけではない。特にファッションを扱う企業ならなおの事、自由に選択させる方が良い人材を見分けられると日頃から感じていたところ、人事のマネージャである私の友人がやってくれた。来年の新卒採用の筆記試験終了後に、翌日の面接でのリクルートスーツ着用御法度を告げた。急に告げられてどんな恰好をしてくるかと私も興味津々で尋ねたところ、びっくりするようなケースも少しはあったらしいが、それぞれに「自分らしい」それでいて面接に相応しい恰好をしてきたらしい。結局、面接での話題も「どうしてその服を、その色を選んだのか」の質疑応答が主になったらしいが、ファッションを扱う企業なら当然といえば当然である。
女性起業家の人達の多くが、若いお嬢さん達とは違う(同じ意味のもあるかも?)意味での「勝負服」を持っていると聞く。初めて挨拶に伺う場面で着る服、「必ずこの仕事は決めてやる!」と思う時に着用する服である。アメリカのビジネスウーマンの間では「パワースーツ」と呼ばれている。ただそのパワースーツですら、経験と年齢に応じて少しずつ変わって来るものである。これは決して女性だけに限られたわけではなく男性でも同様だろう。男性でも女性でも、自分らしさを追求するところから始めたら良いのである。色目、スタイル、バランスなど、「素敵だなぁ~」と感じる諸先輩のいでたちを真似るのもOKだし、人に相談してみるのも良いだろう。それらをエッセンスとして取り入れながら「自分らしさ」を表現できるものを見つけて欲しいと思う。そう言う中で、仕事の遣り方、プレゼンなどにも「自分らしさ」が出せるようになってきたと、自身を振り返って感じている。

以上

辻阪 京子

第4号(2003年08月04日)

少し前から財団法人日本SOHO協会関西支部の運営に関っている(まぁ、何にでもよく首を突っ込む奴で…)。

ことの起こりは、数年前から社内で元社員による「独自SOHO」を実施しており、またそれ以外にもSOHOの人達への仕事の依頼をしている立場から、その内容をSOHO協会関西支部の例会で話させていただいたのがきっかけである。
十数年前、ちょうどバブル真っ只中に50名ほどのスタッフを抱えていたが、全スタッフが女性と言うこともあり、出産や配偶者の転勤により退職せざるを得ない状況に追い込まれていった。おりしも「育児休業法」なる法律が施行されはしたが、個人的にどうしても納得ができなかったのと、ITと言う道具の使い勝手が格段に良くなり始めたことで、少しずつではあるが在宅での仕事に切り替えることを試みた。今では社員と呼べるスタッフの数は20名を割っており、間接人件費が目に見えて減少してきている。個々には、契約により時間単位で業務をこなしてもらう場合や、仕事単位での作業に対価を支払っている場合など様々なケースがあり、必要に応じて打ち合わせのために事務所に出向いたり、直接クライアントに打合せに出向いてもらう場合もある。
現時点ではサテライトと呼んでいる在宅のスタッフも20数名おり、業務を支えてもらう重要な戦力となっているが、過去を振り返って概ね問題もなく業務が遂行されているのは「元社員」と言う縛りがあってのことだと思い込んでいた。しかしながら今回、既存のスタッフでは補い切れないケースが発生しため、社外(Web上)に求人の情報を流してみたが、その際に意外な発見をすることとなったのである。見ると聞くとでは大違いとは正にこのことで、良い意味の驚きもあり、また様々な問題点が浮き彫りにされた部分も見えてきた。
まず最初に感じたのは、仕事の受注に対する疑心暗鬼である。特に近頃では頻繁に詐欺まがいの仕事の話しが出回っていることが原因のようである。また個別のメールのやり取りで解ったのが、能力のある人であっても営業力が無いがために、なかなか仕事に行き当たらないケース。また営業力があっても独りではできない量の仕事が多く、数名のSOHOを取り纏めているグループに入って、今度はマネージメント能力を持つ人にマネージメント料を請求されるケースなどが上げられる。そして一番の驚きは、応募者の中の半分が、現役サラリーマンや現役のOLであったことである。その殆どが将来の独立に向けての準備や、女性の場合では出産などによる在宅ワークへの切り換えを考えての上のようである。
こう言う状況を見ていると、いかに潜在的な起業家予備軍が多いことかと考えさせられる。3月まで産創館におられた吉田さんが、現在の各種支援策は、やりたいことが決まっている「顕在的起業家」向けであって、本来引っ張り上げないといけないのは「潜在的起業家」だとおっしゃっていたのを思い出した。この意見には異論を唱えられる方もあろうかと思うが、その異論を唱えていた私が少し認識を改めさせられたのでここで取り上げさせていただいた。

以上

辻阪 京子

第3号(2003年07月07日)

前回の「色は匂へど…」に、私達が立ち上げた「有限会社びぃなす・ぷらねっと」に関して書かせていただいた。

第2号(2003年06月09日)

大阪市女性起業家情報交流協会の役員の有志で「びぃなす・ぷらねっと」という新会社を立ち上げる事になった。

メインで動いている前会長で現在相談役の龍岡、運営委員の栗山の両名が、役員の殆どに声を掛け、最終的に「大阪を素敵な大人が闊歩する街にしたい」の主旨に賛同して残った、会長の私と副会長の森の2名を加えて4名で有限会社びぃなす・ぷらねっとが走り出す事となった。最初のミーティングから紆余曲折の9ヶ月を経て、この6月3日にやっとのこと法人登記に漕ぎ着けることが叶った。自らがワーカーズコレクティブを実践しようと始めたが、4名がそれぞれに自分の会社を持ち、それぞれ職種や形態の異なった自分の仕事を持つ中で、子細を詰めていく事がいかに大変かということを思い知る。

週1回のミーティングと日々のメールのやり取りの中で、喧々諤々を繰り返しながらも纏まってきているのは、何か問題が発生するたびに「最終的に私達がやりたいこと何だった?」に立ち戻ることができたからだろう。ベンチャーを志す人にとっては「当り前のこと」と思われるかもしれないが、立ち上げることに重きをおく場合、どこかで妥協を余儀なくされる場合も多々ある。しかしながら4人が納得の上で、と言うのが条件となると一歩進んで二歩下がるなんてことも起きるのである。もちろん個々には妥協している場合もありえるが、一人の時よりは遥かに「まぁ、ええか」が少ない。また自分一人なら気にも留めなかったような些細なことが気にもなり、お互いの思いを絶えず確認しながら進めていかなければ何事も始められない。かと言って任せっきりでは参加した意味が無い。その上、それぞれにそこそこの人脈を持った連中が4人集まっていることで、良いも悪いも持ち込まれる案件の大きさに翻弄されそうにもなる。そのような状況の中で、先ずは「自分達が出来る範囲」で4月から実質的な活動を始め、今まさに船出せんと心はやっている。この顛末いかが相成るか、乞うご期待を…
(有限会社びぃなす・ぷらねっと ホームページURL http://www.venus-planet.net)

以上

辻阪 京子

第1号(2003年05月12日)

先日、古くからの知人の会社の社葬を何故か手伝う羽目となった。今まで

色々なお葬式や結婚式のパーティなどのお手伝いをした事はあっても社葬となると、そんなものは「社内の総務で取り仕切るもの」のイメージがあって、一体何をすれば良いのか? 頭の中で?マークがいくつも沸き上がってくる。その上かなりの老舗なので関係各位に町会のお偉いさんなども絡んでこられ、話しは全く見えない状態に…。そんな中を、市中引き回しの如くご挨拶に借り出されドタバタしたものの、まぁ何とか盛大な葬儀は滞りなく終わった。ところがホッとしたのも束の間、翌日からは参列者のご記帳、供花、名刺、弔電の名簿との突き合わせに、葬儀の当日よりもアタフタする騒ぎとなる。その中で興味を引いたのが弔電である。今や弔電も「押し花」「刺繍」「漆」「七宝焼き」に、なんとお線香の入ったものまであることを知った。
これまた数日前、とても奇遇なのだが、この電報のアイテムを考案した方とある会合で知り合い、「五感に訴えかける電報」のコンセプトを聞くこととなった。電報には上記した種類の他に、「ぬいぐるみ」「オルゴール」など(こちらは主にお祝いの場合)があり、視覚、聴覚、触覚、そしてお線香で臭覚に訴えかけるところまでは成功したそうだが、どうしても叶わなかったのが「味覚」だそうだ。しかしながら味覚に訴えかける電報、と聞いた段階で「一体電報って何だったのか?」と、大元に立ち返って考えてみた。携帯電話やメールがここまで使われるようになっている現在、電報と言う一つの通信手段だったものが冠婚葬祭に欠かせないアイテムの一つとして、全く別の路線を歩み始めているだ。
ここまで書いて「何が言いたいのか?」と言うと、個人の葬儀などの場合の弔電は、高価な台紙の電報をお送りすれば祭壇にでも飾られて残される可能性もあるが、社葬の場合は全く意味が無いと言うことである。到着するや否や文面だけが取り外されて台紙はゴミ箱へと直行する。ベンチャーの皆さんも仕事をする上で、このような機会に出くわす事もあるだろう。その際にちょっと頭の片隅に覚えておいてもらえれば無駄な出費は防げるのではないかと思う。ちなみに見事なほど簡素だったのは、議員、知事、市長などと呼ばれるお歴れきの弔電であった事を最後に付け加えておきたい。


以上

辻阪 京子